祇園点景

祇園女紅場

明治時代の小学校は、4年生までが義務教育だったため、その上の高等科に進級する一部の生徒を除き、大半が4年を終えると卒業式を迎えました。その名残か、大正時代から昭和にかけ、祇園のお茶屋さん関係の女の子たちは尋常小学校の5年生になると、舞妓や芸妓になる修業をするため「女紅場(にょこうば)」というところに通いました。

祇園町の南にある「祇園女紅場」はいうならば芸妓さん舞妓さんの養成学校。舞や三味線などの芸事はじめ、お茶お花などの習い事が主な授業内容としています。

明治6年(1873)に「婦女職工引立会社」の名称で発足。明治新政府の不況下で、当時約1000人といわれていた祇園の芸・舞妓の生活手段の育成と確保が、設立そもそもの狙いだったとか。課目には園芸、染織、養蚕、製茶などがあり、養蚕場や製茶場も備えていました。明治14年に「八坂女紅場」と改称。現在は学校法人になっています。

日本で最初の女学校である「府立第一高等女学校」誕生の裏には、この女紅場を生んだ自由民権の新思潮が感じられます。

女紅場の生徒であるための唯一の条件は祇園の芸妓、舞妓であること。技能上達のためにひたすら精進の生徒たちで、日々賑わっています。

祇園女紅場

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