祇園点景

西行庵

無常感を生きた 西行の庵

西行庵鳥羽上皇に仕えていた北面の武士、佐藤義清は23才の若さで出家。以後、西行と号して「行脚一期」を決意。旅人の人生を送りました。「家富み、年若く、重代の勇士」と称えられていた青年が、なぜ世捨て人をこころざしたかはわかりません。

「世の中を捨ててすてえぬ心地して 都離れぬ我身なりけり」とうたったことからも、推察できるように、勧進のためのみちのくの旅と四国行脚の旅で京を離れたほかは、一生の半分を真葛ヶ原に結んだ庵で過ごしました。

世捨て人にはなりきれなかったものの、ひたすら歌を詠み、思索する求道の人として自らを律した生涯を送った点など 見事で、藤原頼長は『台記』に「心に愁い無きも、遂に以て遁世す。人之をかん歎美せるなり」としるしています。

「ねがわくば花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」の辞世の句を残して、念願どおり、釈迦の涅槃と1日違いで一生を閉じました。

西行庵は、富岡鉄斉らが西行が結んだ真葛ヶ原の草庵跡に、大徳寺塔頭の真珠庵にあった鶏鳴塾を移して復興したもの。西行が没したのは河内国弘川寺ですが、円山音楽堂の裏手にある双林寺の本堂の傍らには、西行の供養塔が祀られています。

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